昭和51年05月16日 朝の御理解
御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」
何んでも本当のもの本当の信心でなからなければならない。こんな時42節は、いよいよ私共が本当のもの本当のものに触れられる。本当の信心が頂けるひとつの前提のようなものだと思うです。ですからそれぞれの過程に於いてやはり、こういうところを問わなければならない。まぁ人に誘われたり導かれたりしてお参りをする。おかげを頂いた。はぁ有り難いと思うてお参りすると、今度はおかげとは思われない、信心しよってどうしてこんな事が起こるじゃろうかと言った様な事にも直面する。
けれどもそういう時を大事に致しませんと、本当の信心になっていかないです。そういう時のなら思い方が、「これはまぁだ信心が足りぬのじゃ」と一心の信心をしていけば、そこからおかげが受けられるとこういう。「これはまぁだ信心が足りぬんのじゃと」いうその工夫がいるのです。そして一心が要るのです。ここ一両日頂いておりますように、いわゆる「林与一」です。「林」というのは木が二つ言うなら迷い心というのでしょう。「与一」というのはあのう一つを与えると書いてあります。
神様が下さろうとするのは、「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と言う事は、「氏子信心して本当の信心を頂いて、本当のおかげを受けてくれよ」なんです。だから本当のおかげというのは、私は御神徳だと言う風にまぁ昨日は聞いて頂きましたよね。だからそう言う大変なおかげを頂かせてもろうてこそ始めて、「ほんとの信心だ」と言う事になりますが、それにはです一心にという信心が自分の信心が、これはあの人に頼みこの人に頼みあれに頼りこれに頼り。
ならお金を持っておる人は、まあぁ金に頼っておる。子供を沢山持っておる人は、子供に頼っておる。そういう他愛もないものを頼りにしておるというところからです、いよいよ頼りになるものを神様と定めて、その神様にお縋りする。それを私は一心だと思うです。はぁ家には良か息子がおるけんで、良か息子にそのう頼りきっとるとか。「これだけの財産があるから」と、財産頼りにしておるとか。もう実をいうたら何ぁんも頼りになるものはない。ただ頼りになるものは神様以外にないのです。
私はぎりぎりに一心とはそう言う事だと思うですね。だからそういう一心をいよいよ、一心たらしめていく生き方を身に付けていくという。これはまぁだ自分の信心、言うなら一心が足りんのじゃと思うて、自分の心の中にある不純な一心じゃないものを、取り外していくような修行をさせて頂くと言う事。本当なもんじゃないとですもん、本当なものを目指さないとですね値打ちがないです。昨日富久信会でしたが、まぁ色々とそういう話がでましたが、その中にそのう本当なものという話が出たんです。
それに私が今頂いておるこのべっこうの眼鏡が100万円するそうです。この頃までは15万円じゃった。それでもこれだけ立派な物はないと言う事です。それを西岡先生が聞いてきてから、まぁそういう「はぁまぁ本当か嘘か知らんけれども、そんな事があるじゃろうか」と私は思うんですけれどもです。言うなら本当なものだから値打ちが出るんです。これがプラスチックかセルロイドかなんかだったらです、もう使うたんびんにもう嫌になってきたり飽いたり、または見苦しゅうなったりするでしょうけれども。もう使えば使うほど磨きが掛って来れば来るほど素晴らしくなる。
飽くどころじゃないますますこの本当なものというものには、このう愛着というものが付いて来るんです。ですからその段々だんだん値打ちの出るような信心。言うならば本当なものを、そこに目指さなければいけないと言う事であります。まぁ本当なものとはです、これはまぁだ信心が足りぬのじゃと思うて、そこからの信心。もうこれは本当な信心を頂くひとつの過程としてです、そういうところがございますから、おかげを頂いていかなきゃならん。
昨日午後の奉仕の時でした。4月16日のご大祭におかげを始めて頂いて、ここに毎日お参りになります、あのう中村さんですね。中村ヨシエさんのお導きで参ってきた。お花の先生をしておられますから、そのお花のお弟子さんの中に、まぁ大変この入り込んだ難儀に直面しておられて、もうまぁ朗らかな方ですけれども、まぁ泣きの涙と言った様な状態。自分は体の節々が動かんような病気で、血圧が高くて毎日病院通いをしておると。その上主人が三角関係でもうこげな苦しみこげな悩みはない。
家にはその主人のお母さんが、もう長年寝たっきりで、介抱をその手がはずされない。といろいろな難儀が重なっておる事を聞かれて、「そんなら今日は合楽のご大祭だから、ぜひお参りをしなさい」と言うて、合楽でご自身がおかげを受けられた話をされた。「ほうそげな神様がござるなら、連れて参って貰いたいもんばってん。まぁだそのお医者さんに、毎日行きよるから、お医者さに行ってから、まぁ後から追いかけて行く。」と言うことであった。
「もうそげな事言わんなあの、お医者さんなもう後からにしてから、お参りを先しなさい」と言うて、まぁ連れて参ってこられたのが始めてだった。いわゆる4月16日。もう第一にたまがったのは、あんまりお参りが多いのにたまがった。それでまぁ段々お祭りも頂いて私のお説教が始まった。そしたら途中から立ち上がってから「中村さん私は帰る」って仰ったそうです。なぜですかちゅうたら「あげん当て付けて言われるなら私はもう」まぁ言うならグラグラしたと言う訳です。
私がその人を知っておる訳じゃないから、私が当て付けた訳じゃないけれども、まぁそう言う風に響いた訳です。もう本当にそのうあの時に私があの、「善人というのは、全ての事を良い方へ良い方へと、とっていくのが善人」で、もう全ての方へを恨みごと、言うならば「悪い方へ悪い方へと、とっていくのが悪人」悪人は必ず、神様から捕まえられてから、窮屈な目にあわにゃならん。牢の中に入らんならんような事になるんだと。善人はそれと反対なおかげを頂くんだという話をしたんです。
ところが自分が思いよる、いわゆる悔やみ続け、悪い方へ悪い方へとっていきよる、そこんにきがまぁ当たった訳でしょうか。だから「そげな事言いなさらんな、最後まで聞きなさらにゃ良かか悪かか分からんがの。」ちゅうてから、まぁ引き止めたと言う訳なんです。そして「引き止めてもろち良かった」と言うて、大変喜ばれてご直会でお神酒も頂いて帰られた。
それでまぁあんまり女の方ですから、そのお神酒いけんのにお神酒頂かれたもんですから、もう顔がほてってカッカして、それでもやはり病院には行かなきゃならんと言うので、あのう病院に行かれた。それで「先生今日は私酒頂いとるけんでその、血圧が高いの間違いないから、今日はもう測らんで下さい。」「そんな事があるもんか。そんなら尚更測らじゃこて」と言うて、捕まえられちから測ってもらったところが、正常になっとったっちゅう。医者もたまがり自分もたまがった。それっきりおかげを頂いた。
昨日お礼に出てみえてから、「先生あなた今日は、もう主人がそこまで送ってきとる」ちゅうて、今日はこげな風でお参りするけんあなたもお参りしなさい、と言うたのはそのうこっから帰る時に、御神米を頂いて帰った。御神米を子供達にもみんな頂かせて、もう「はぁこれがおかげじゃろう」と言う風なおかげを、子供達がひとりひとり頂いたっちゅう。もういろんな事が一と月の間に、もうそうにゃおかげを頂きましたちゅうて昨日言われる訳ですよ。その第一のおかげが御神米ば頂いてしもうた。
その言うなら空ばってん、御神米頂いてあるけん、これでんよかろうと思ちから、主人にあなたん新しく買われた自動車に付けて行きなさい。そうすると事故やら無かちゅう話じゃからと言うてその、御神米ば自動車に付けてやったそうです。そしたげならその日衝突した。相手がタクシーじゃったげな。だからそのタクシー会社の言うなら、やはりそのそう言う事件士と言った様な人が、ちゃんとおってからもう悪かったっちゃ良かったっちゃ、相手から金取るごたる風な仕組みになっとるそうです。
それでその帰ったら近所の人が「そりゃあんただいぶん取られなさるよ」というて言われるけん、心配しよりましたらそのタクシーに乗っとった人がですね、「もう絶対あんたが悪か」ちいうてから、言い張ってやらっしゃったそうです。「だからあんたげんこの車も修理してやらにゃいかん。あんたが向こうに言う事なか、私が後ろから見とる分かっとる」ち言うてから言うたそうです。
はぁもう本当に御神米ば、そのう自動車に付けた途端にあなたがそげなおかげば頂いとるけん、今日はあのあなたもお礼参りせんのと言う訳なんです。今日は俺はちょっと土曜で早よ帰って来たというのでちょっと、まぁ遊びに行くっち言われたそうです。これまたその、よか女子とこさん、行くごとなったらいかんと思って、行くごとなかったばってん、そんなら私もつれのうち来るちゅうてまぁ出たち。そして自動車の中であのう「合楽にお参りして、それからいったっちゃ遅うないじゃんの」と言うて。
大体お参り一緒にお参りするはずでしたばってん、表からどげん言うたっちゃ、こうこうやってからその入らんじゃった。やっぱ自分が悪い事しとるもんじゃけん、やっぱ気が咎めるんでしょう、と言う風な言い方をされる方なんです。そしてあのう16日がご大祭で20日にはね、そのお母さんが亡くなられたそうです。もうたいてい私は、もう近所の人からでも誉められる位に、そのうお母さんを大事にした。
けれどもお話を頂きよったら、まぁだその形の上ではしよるばってん、心から真からという介抱をした事がなかったらから、これから先いつまで生きなさるか知れんけれども、いっちょ心からお母さんば大事にしよう」と言わっしゃったげなら、お母さんの苦痛がなくなったそうです。撫でたり擦ったりせなんとがせんでよかごとなった。でもう四日間もう大変喜びに喜んでお礼を言いながら、もうそれこそ安らかなお国替えじゃった。
とにかく「金光様っちゃ、どうしてこげな風におかげを頂かれるじゃろうか」っち毎日思いよります。そん代りもう毎日毎日お賽銭ばちゃんとお供えしてから、合楽の金光様というてから、自分方の庭から一生懸命拝みよりますち言われます。話を聞いてみるとまぁ荒削りのざっとしたそのお話なんですけれども、その言われる事一言一言にです、なるほどおかげが受けられるなというタイプですね。
御神米をお供えあのお奉りした途端にです、自動車が衝突した。お参りして4日目には親が死んだと。例えば言う様な事だけでもです、言うならば「神様もたいした事なか」と言う様な風に、でん言うてもいいような中にです、それをじっとおかげおかげ」という頂き方をしてある。そういう信心が土台になって、それが磨かれていったところから、私は本当の信心が生まれてくると思うですね。
昨日富久信会で、もちろん商売人の方ばっかりの集まりですから、もう本当に深刻な、昨日はとても素晴らしいお話を、皆さんなさいました。その中に、私がお話しました事から、いろいろヒントを得てのお話でしたが。商売をさせて頂くという人が、「どうぞ今日も商売大繁盛のおかげを頂きますように。」という信心から、その商売そのものが信心を育ててくれる。もう商売そのものが、お徳を受けるひとつの信心を頂く、お徳を受ける場だと言う事。
だから商売が発展するとか、繁盛しないとかと言う様な事ではなくてです、「その商売を通して徳を受けて行く」という生き方にならなければ、本当の言わば素晴らしいおかげにはならんと。ただ日々「今日もどうぞ繁盛いたしますように」というお願い。「今日は何々を仕入れさしてもらう」「何々を売らせて頂きます」というお繰り合わせを願うて、それがただ繁盛していくというだけのおかげでは、たかが知れとる。限りないおかげに繋がらない。やはり力を受けなきゃならん、徳を受けなきゃならない。
してみるとその商売の、例えば損もありゃ得もあるでしょう、けれどもその損得を抜きにしてです、その損得を通して信心を頂く、信心を分からしてもらうという生き方から、生まれて来る繁盛でなからなければ、本当の繁盛にはならない。むつ屋の信司さんが発表しておられましたが。とにかく呉服屋さんですから、その呉服屋というのをもう天職だとして頂くという、内容がこの頃だいぶん自分ながら充実して来た事を思う、とこう言うのです。
だから神様が与えて下さった仕事だから、大事にしなければならないと言う様な事を、商売の上にも人間関係の上にもその事を思うて、まぁ大事にしていくとこう言う訳です。そこからね私があの申しました事ですけれども、そこからひとつの使命感と言った様なものが、出て来なければいけないのじゃないですかね、というてまぁ話さして頂いた。神様が与えて下さった仕事。しかもこの仕事が繁盛する成就する事によってです、自分の使命が果たされ。
使命のその眼目というものが、勿論どこに置くかと言う事ですけれども。例えて言うならば、兄弟あたりが何人もおる。おったと致しますか。自分は長男として言うならば、その兄弟達を良かれ悪かれ、やはり親同然で見ていかなきゃならない。そういうひとつの使命感と言った様なものが、まぁやっぱ使命感。神様に与えられたこのお商売であるから、この商売の繁盛を通してです、お役に立たせて頂かなければならない。合楽教会大発展の、言うならば御用に使うて頂かなければならない。
いやそうい、自分には使命があるんだと言う風な頂き方になってくる。 まぁ大きな事になりますけれども、なら私の場合なんかはね、もう現在の世の中にはです、私大坪総一郎がおらなければならない事が必ずあるんだと。私はそう感じますから、そういう意味合いにおいての使命感を持っとります。世界総氏子が助かっていくことの為に、世界に和賀心時代を創って行くと言う事の為にね。
もちろん教団、現在教団の建て直しと言う事が言われるが、そう言う様な事の御用にでもです、必ず使われなければならないと確信しているんです。だからそこにそういう大きな、ひとつ使命感に立っておるんです。だからそこに問題があっても難儀があってもです、そういう難儀なとか問題に直面致しましてもです、そういう使命感に立っておりますと、そりゃもう何でもない事になって来るです。
だからそういう願いというものは、段々大きくなっていかなきゃならない。自分はいい自分の一家、自分のこのお店を守って行かんならんという使命感。と言う様な所からです、なら教団なら教団にも、また教会なら教会でもです、総代なら総代という御用頂いておるから。「自分でなからなきゃ出来ない御用があるんだ」という私は、使命感に溢れるような信心さしてもらわなければ、心が勇んでこない。
ただ「自分の難儀な言葉、助けてもらいすりゃええ、おかげさえ頂きゃええ」と言う様な信心からです、そういう信心を頂いて行く。昨日私お夢を頂いたんですけど、それは忘れとったけれども、昨日富久信会の中で、こんなあのお夢頂いとったと思い出して話した事でした。その栄四郎がある信心の無い人と、信心問答をやっている訳です。私共の4番目の息子です。
それがもう素晴らしいその回答をしておるんです。それがどう言う事を言いよったかと思ったところがそのう、「お前だん信心してから神様神様というが、自分の死期」ね、「自分がいつ死ぬるぐらいな事ぐらいは、分からなければ信心の値打ちはないじゃないか」って言ってる訳です。「折角信心するならね、先の事ぐらい分かるぐらいなをせにゃ、信心のあるもんもないもんも、大して変わりはないじゃないか」と言う風に言われておる訳なんです。それに対して栄四郎がねこういう返事をしてるんですよ。
「金光様のご信心はね、例えばもう50なら50で死ぬる運命にある者でも、信心いかんによっては、70まででも80まででも生きられるのだから、言うなら和賀心ひとつなのだから、おかげを受ける受けないは自分の信心ひとつなんだから、先の事が分かるもんか」ちこう言うた。私はそれを夢の中で頂いてから、素晴らしい事言いよると思うたです。金光様のご信心とはそうなんですよ。ただ右か左か分かるくらいな事ならばあの、んならトランプ占いでもいいじゃないかと。
一般に信心とはそう言う風な事を、信心と言う風に思うておる。けれども金光様のご信心はです、今言うように50で死ぬ運命であってもです、「無常の風は時を嫌うというが、無常の風に時を嫌わす」という信心なんです。それも心次第なんです。神様が80までの寿命を与えて下さっておる運命を頂いておりながらです。それを早死にする人があるかもしれません。
50までの寿命と言われ、運命の上ではなっておるのが、段々信心して自分の心が開いて行く内にです、70までも80までも90までも、長生きのおかげを頂けれる道なんです。もう見事に金光様のご信心をそのう、説明しておると感心した事でした。昨日もここの御祈念がすんでから、石井きよしさんが富久信会に参加しておりました。その人はもうお供えをする時にはもう、絶対自分一人のお供えしかしませんです。例えばなら家内なら家内が具合が悪かったっちゃ、家内の事をお願いするっちゅう事は先ずないです。
まぁ非常に信心が何と言うですかね、割り切った考え方をしてる訳ですね。ところが嫁さんがかおりと言いますが、かおりさんの事をしきりに頂くんです。それで私はお届け張に石井かおりをお届けさして頂いておりました。そしたらですもうその富久信会ももう仕舞いかけになってですもん、その机の下から何かブスーッとし出して「これ先生かおりが親先生にあげてくれち言うちからことづけております」とこう言う訳です。
先生がこう足が痛たぁいごたる風してなさるから座椅子です。こう下に敷くその籐で作ったあのをかおりさんがことづけたと言うのです。でまぁみんなに話した事でした。「本当に真心とか思いとかと言う事は、神様が見抜き見通しだね」て言うて話した事でした。もうあちらへ下がって11時半回る、しまい頃にですそのかおりさんがことづけたやつをそのう出したけど、もう何時間前にここでお届けをした時に、その事はお供えもしとらん、お届けもしとらんのに、お届け張にもうちゃんと載っておると言う様にですね。
まぁ言うならばお腹の中の赤ちゃんが男か女子かと言う位な事は、この神様は分かりなさる神様です。または教えて下さる神様なんです。けれどもそう言う事は、金光様のご信心じゃないんだと言う事。それはもう枝も枝葉も葉だと言う事。もしそう言う事だけで、「はぁ神様が有り難か」というごたる人ならば、必ず本当な信心にはならんと言う事です。例えば先生がんなら女子ち言うちゃったけど、男が生まれたらもうそれだけであなた、信心ば右左にするでしょう。
だからそう言う様な事が、有り難いという信心ではなくて、どういうところに直面致しましてもです、「これはまぁだ自分の信心が足りぬのだ」と思うて、しかもそこから、一心の信心を求めて行くという生き方。そこから必ず素晴らしい体験が生まれてくる。そしてそれが繰り返し繰り返し、そういうね例えば自分の思うようになる事やら、ならん事やらが続いて行く中にもです、「これはまだ自分の信心が足りんからだ」という一心の信心をしていくところからです、いよいよほんとの信心。
言うならば「あれもおかげであった。これもおかげであった」という体験が生まれてくるです。右と願っておったってあの時は左になった。神様は力が無いごと思うた時代もあったけれども、段々信心が分かるようになったら、これも神様のご都合に違いはないと頂いて、そこから一心の信心をさして頂きよったらね、願うた反対の事になっとった事がおかげであった、と分からせて頂いたという時に、本当なものいわゆる狂いの無い信心というのはそういう信心だと思うです。
ですからこの42節というのは、本当の信心の前提であるところの信心を教えておられると思うのです。右と願って左となって「はぁおかげを頂ききらんじゃった」じゃなくて、「これは自分の信心が足りぬからだ」という姿勢をつくらなきゃいけないと言う事。「そこからおかげを受けられる」と仰る。そこからのおかげが素晴らしい。そして後で考えてみて、願い通りにならなかった事がおかげであった。それこそ信心のおかげというのは、鼓の千鳥がけのようなものだと言われております。
鼓のあの締め上げる綱というのは、千鳥がけにかかっていますよね。鼓とはこのこう太鼓の一種ですね。言うなら千鳥がけと言う事は、右と願って左、左と願って右とこう言う風に、ちぐはぐになって行く事を千鳥がけというのです。信心しても信心しても、言うならば教えを頂きゃなる程有り難いけれども、自分の思うようにはひとつもならない。それこそ「働けど働けど、わが暮らし楽にならざり」と言う様な所も通るけれども、じっと手を見るというのではなくて。
じっと自分の心の中を見極めさして頂くと、あるはあるはもうおかげの受けられないものが一杯あると言う事。それをひとつひとつ改まって行くという信心にならせて頂く。それこそ右と願っても左、左と願っても右と言う様な状態の中にあってもです、それをまた一段と締め上げる。真ん中をギュッと締め上げる。そこに良い音色が出て来る様なおかげ。そこまでいった時始めて私は、本当の信心と言う事になるのじゃないかと思います。だから本当の信心を目指すと言う事。
本当なものは必ず使えば使うほど、値打が出て来ると言う事。信心も本当なものであればある程です、素晴らしい言うならば底光りのするような信心と、心の状態の上におかげが頂け、またそれに伴うところのおかげも現れてくる。折角信心をさして頂くのですから、本当な信心をお互い目指したい。で本当な信心によって本当なおかげ。神様が「与一」と言うて下さる、神様が与えて下さろうという、たった一つのおかげなんです。そのおかげを自分のものにさせて頂こうという信心。
それには二心ではいかん、あれに迷いこれに迷うと言う様な。一心を立てて良かれ悪しかれそれを「これはまぁだ信心が足りぬのだ」という姿勢を持って信心を進めていかなければなりません。お育てを頂かなければなりません。そういうおかげからでありませんと、信心の妙というものには触れられません。願うた事が成就した。「はぁお願いしたらまた売れたまた売れた」と言う様な事では肝心要のものが疎かになります。それこそ「また売れた。また売れた」と。
また売れたら「金玉の宿替え」ちゅうごたる。金玉が宿替えするごとなるんです。本当に私共がです願うても成就しない時に、いよいよ本心の玉を磨かせて頂く事に、精進さして頂くところから生まれてくる、信心でなからなければ神様に通わない。交流しない。良いものが生みなされない。その良いものを生みなして行く信心というのは、真の信心以外にない、本当のいわゆる御神徳以外にはない。
神様はその御神徳を受けておかげを受けてくれよと、言われる神様の願いに応えるような信心からです、自分のそれこそ「また売れたまた売れた」と言う様な時には、ただ嬉しいぐらいな事だけれども」。それと反対の中にあってもです、湧いてくる喜びを信心の、私は妙と思います。信心が佳境に入って行くというのはそういう時だと思う。信心がいよいよ尊いもの、有り難いものになってくる時には、それこそ右が左、左が右と言う様な時こそ、本当の信心が頂けると思います。
そして信心とはただ自分の思い様になるとか、先の事が分かるとかと言った様な事が、信心のような間違いを心に持っておってはならない。信心は言うならばおかげは「和賀心」ひとつである。50までの運命の人が、信心によって80までも90までも長生きのおかげの頂けれる道だ、と言う事を分からして貰わなければなりません。今日は大分支部のご大祭です。その事を神様にお願いさして頂いておりましたら、この「合楽のひれい」と言う事を頂きました。
もちろん支部長であるところの、綾部さんの信心と言うならば、あの合楽のひれいが大分にどう言う風に現れて行くか。久留米、福岡支部の大祭は、あのような形で現れてまいりました。そしてその後にいろいろと、反省さして頂かなければならない事が、いくらもありました。あれほどしのおかげを頂いた中にでも、やはり反省が必ず要るです。福岡の大祭の明くる日、ある福岡のご信者がお参りになりまして、あの時に作ったお弁当が悪くなっとった。
それが話がちぐはぐになって、二重になったりして、とうとうあの時にお弁当食べてもらっときゃよかっただけども、他に注文しないものが沢山来た為にその、そんな風にみんな頂いてお弁当持って帰られた。持って帰ったところがもう既に悪くなっとったとこういう。もう本当に、そん時に話し合いばしたもんばっかりが、話し合って「もう来年な、こげな事があっちゃならん。本当にあのこういうところがやっぱし間違うておりましたよね」と言うてあの、まぁそういう話がありましたがです。
もう信心というものはもう、これで良いと言う事は決してありません。もう限りない反省があの求められます。またそれをんなら反省して行くところに、本当の信心への過程があります。本当の信心にはもう絶対反省がなしには、おかげになりません。例えばお気付けを頂いたというてもです、ただお気付けを頂いただけではなくて、そのお気付けを頂いた事その事を。ただ「有り難い」と「はぁおかげじゃがおかげじゃが」という受け方があります。
同時に、そこに「はぁこれはここん所が間違うとった」と言うて、言うなら今日の御理解でいうと、「まぁだ自分の信心が足りなかった」という反省がいります。ですからその内容としてです、ただ良い方へ良い方へ頂いていくという生き方を「あぁ本当におかげ頂いた」という生き方と。そこに反省をもって改めていくという信心がですね、この42節には説いてあると言う風に思います。いよいよ本当の信心を目指したい。そしていよいよ本当のおかげを頂きたい。そう思うですね。